アレ

アレです

死にたい願望について

「死にたいのか、死ぬほかないのか、死ぬべきなのか。答えは己の中にしかない」

 

 よく死にたいと呟く人間が居ると聞く。

 死にたいと言う願望には、やはりそれぞれ死にたい理由があり、一枚岩ではない。

 自分が駄目人間だから、将来に希望が見えないから、こんな世界生きていてもしょうがないから。

 

 俺は死にたいという願望が「本物」であるならば、それをとめる必要はないと思うし、むしろそれを止めるのは一種の冒涜とさえ思う。

 しかしそれが万が一、「死にたい」ではなく「生きようがなく、死ぬほかない」というのであれば、そこには一度待ったをかけたい。

 

 例えば中年ニートが親を亡くして生活費用が捻出できなくなったとしよう。

 そこから生きる手段があるとすれば、自ら働くか、生活保護の申請でもするか。といったところだろう。

 

 さて、ここにきて「死にたい」と「死ぬほかない」の2パターンを想定してみる。

 死にたいの場合:どうしても働きたくないし、生活保護だと色々な制限がかかる。そんな世界に生きていてもしょうがないので、いっそ死んでしまいたい。

 

 死ぬほかないの場合:自分の能力では働けないし、生活保護も申請したが通らなかった。もう俺にはなす術が無い。死ぬしかない。

 

 前者の場合、そもそも生きる意味が無いということなので、死にたいという願望を尊重してやりたいというのが俺の見解である。

 まあここらへんも妄想教ならいくらでも肉付け出来るので、やはり妄想教はオススメ。

 ただ後者の場合、本人は生きたいという意思があるにも拘らず、あらゆる行動が実を結ばず、結果的に残された選択肢が「死」だけだった。というのを、俺は放置しておくべきではない。

 

 社会における自然淘汰と言う輩も居るが、そんな人命軽視ならそもそも社会なんて必要ないし糞喰らえだ。

 社会には、社会を構築する以上、社会内に存在する人間を全て保護することが使命であるはずだ。

 

 さて、これらとはまた別に、更なる「死にたい願望」が存在する。

 それこそが、「死ぬべき願望」だ。

 

 自分はクズだから死にたい。あるいは死ぬべき人間なのだから死にたい。などという自己嫌悪からくる「死ぬべき願望」も「死にたい」で表現されることが稀にあるようだ。

 人それぞれに「クズの定義」やらの価値観があって、自分は死ぬべき人間なのだと思い込んでしまう。

 そうした固定観念に縛られ、自分の命を断定するのは非常に勿体無いことだ。

 

 

 とはいえ、どれだけギャラリーが騒ごうとも結局は、生き死には本人しか決められないことだ。ギャラリーに出来るのは、何かしらをごたごたと提案し、興味を向けさせるくらいだ。