命を尊ぶ不戦の誓いと、不労肯定について
やたらと戦争を危険視し、人命を尊ぶ者たちがいる。
なるほど確かに命というものはかけがえの無いものとして見て良いものだ。
失われた命は二度と戻りはしないし、大量の命を失うことになる戦争とは、まさに愚行の極みであるのだろう。
だが、ここでふと、俺の不労肯定思想を加えてもらいたい。
命を奪うのは、戦争だけだろうか?
否、戦争以外にも、命を奪う運動は存在する。労働だ。
現代日本において、過労死や事故死はもはやそう珍しいことではなくなってきている。
某運送会社、某バス、某居酒屋チェーン、某介護、エトセトラ、エトセトラ……
俺が現在勤務している小売店ですら、過去に一人の過労死者を出している。
これを見るに、労働とは人命を脅かす要素がたぶんに含まれるものだと言わざるをえない。
人命を尊ぶこと。これは俺の不労肯定にも繋がることではなかろうか。
俺は人間が好きではない、というか嫌いだ。他人が生きようが死のうが、基本的にはどうでもいい。
だがやはり、自殺や過労死に関しては、その悲劇を不憫に思ってしまう。
そしてそのたびに、労働を称賛するこの社会が醜く見え、社会を構成する人間たちが憎らしく見えてしまう。
そして余計に人間嫌いが加速する。
だが、その上で人命を尊ぶことで、労働称賛に警鐘を鳴らせるならば、俺は今ここで考えを改めねばならない。
人命を尊ぶことが、不労肯定へと繋がるのならば、俺は今までの自分の過ちを許しつつ、考えを改めることにする。
それは即ち、命を尊ぶ不労の誓いである。
不労といっても、全く働かないのでは食い扶持に困るだろう。
ここで言う不労とは、人生全体における自由時間のことだ。
現代日本に蔓延るサービス残業や長時間労働、苛烈なノルマに過激な経営方針。
これらの労働に否を突きつけて、俺は不労の時間を尊ぶことの大切さに気付いてほしいと思う。
そして同時に、不戦を尊ぶことで、共に人命を尊ぶ果ての幸福な社会を実現したい。
もし、不戦を尊ぶ者が居たならば、俺は不労について問いたい。
そしてどうか、不戦を尊ぶならば、不戦と共に不労も尊んでいただきたいと俺は願う。