アレ

アレです

現実を見ろという言葉と、無謀

 俺は毎度のことながら妄想教なので、この言葉が大嫌いだ。

 現実を見ろという言葉には、人の抱く夢、希望、願望、切望の全てを打ち砕く邪悪な要素を含んでいる。

 とりわけ妄想によって救われている妄想教祖である俺にとっては、それは地獄の責め苦と同義だ。

 

 さて、現実を見ろとはどういうことか。

 それは悪意を除いて言えば、将来を確実に生きろ、という意味の言葉だろう。

 自分たちは現実を生きている。どのような夢や願望を抱こうと、現実は容赦なくそれらを打ち砕いてくる。

 ならば、最初から無謀な夢など見ず、滑稽な希望など抱かず、ただ現実をひたすらに生きろ。という意味だとして俺は捉えている。

 しかし、俺からしてみれば、そんな生き方は生きているとは言いがたい。

 そんな生き方で、生の実感が得られるのか。そんなザマで、後世の人間に胸を晴れるのか。

 俺は人生は「生きる」ものだが、「活きる」ものでもあるべきだと思う。

 生活の活。活力、活き活きとする。活性化。

 それらなくして、人は生きることに意味を見出せるものか。

 

 己の夢を、自ら摘み取ってはならない。

 己の夢を無謀だなんだと否定されたときは、むしろ燃え上がれ。

 この現在に至るまで、幾多もの無謀を成し遂げた存在がある。

 世界が地続きと証明した者も、空を飛んだ者も、宇宙にまで至った者も、大昔の人間から見ればまさに夢のような話だろう。

 失敗を怖れるな。挑まないことこそが、真の失敗であり、敗北なのだ。

 それこそ命をかけて、成し遂げようとする熱い魂こそが、生き物を輝かせるだろう。

 

 だが逆に言えば、それほどの覚悟をもたなければ、挑むべきではないともとれる。

 その意味では、現実を見ろというのは一つの入信儀礼の役割として使えるかもしれない。

 なんにせよ、己の夢に意地と誇りがあるならば、怖れず向き合い、よく考えて挑んで欲しい。