自己嫌悪について
「このクソッタレな世の中を、今日この瞬間まで生き永らえている時点で上等じゃないか」
俺は基本的に自己嫌悪をしていない。むしろそこらへんのナルシストよりも自己を愛している。
なので自己嫌悪について悩んでいる人間のことが良く分からないので、色々と探ってみると、たいていは自分と言う存在が、自分の価値観のなかでクズだのカスだのというジャンルに分類されているようである。
確かにそういう、一定未満の価値に対しての忌避というのは、自分の価値を落とさないための戒めとなるのだが、大抵の場合はその条件がいささかシビアすぎるのが目に付く。
例えば定職に就いていないとか、労働が大嫌いだとか。
俺にとってはそんなことはまるで自己嫌悪に値する理由にはならないのだが、人の価値観というのは変えがたいものなのでここはとりあえず置いておこう。
ところで俺もごく稀に、自己嫌悪に近いものを煩うことがある。
たいていは労働で失敗した時や、現在に至るまでの貯金総額が思いのほか少なかったりとか、現実に直面したさいに大したことが出来ない自分の無力さなのだが。
が、そんなことは、次の自己肯定によって吹き飛んでしまう。
「ここまでクソッタレな世の中を、今日この瞬間まで生き永らえている時点で十分に上等ではないか」
生きることは別に義務ではない。かといって死ぬような度胸もない。
とはいえ、現にこの世界では自殺者は少なくない。死んでしまうほどには諦めていないのだ。
そのしぶとさ、諦めの悪さ、往生際の悪さ。
俺は、俺自身のその有様がこの上なく愛おしい。
確かに能力のある者ならば、赤の他人には自分の直面している困難など取るに足らないのだろう。
だがそれでも、諦めない限りは空想世界の主人公並みの足掻きを見せられる。
生きている。それこそが諦めていないことの証明なのだ。
自己嫌悪する人間は、今一度そのハードルを好きなところまで下げて見るといい。
「このクソッタレな世の中で、今日この瞬間まで生き永らえてきた自分を誇りに思う」
もっと自分を褒めてやってくれ。
妄想教の1:現実排他の武陵桃源
「自分だけの世界こそが、唯一の理想郷である」
妄想教は現実への執着を捨てることが肝要である。
が、妄想という曖昧な世界では、どうしても上手くイメージが出来ないものだ。
そこで、世界そのものを妄想で創造することをオススメする。
やることは簡単だ。そこらへんに転がっている異世界ファンタジー系ラノベのように、憧れの新天地を舞台にするもよし。
学園ラブコメのように、現実世界を元にしてもう一度青春を謳歌する舞台にするもよし。
早い話が、理想の世界、理想の自分、理想の環境、理想の展開を、すべて自分の妄想で済ませてしまおうということだ。
そしてそれは妄想小説としてWord文章にでも書き連ねておくと尚良い。
文字を打ち込むたびに世界が動き、妄想の中の自分が生きていることを実感できると思う。
世の中は自分の都合のいい妄想を恥ずべきことだとする風潮がある。
まあ確かに荒唐無稽な妄想は自分で見ていても恥ずかしくなるかもしれないが、そこは自分の抱く理想の諸々への愛によってカバーできるはずだ。
というか別に人の目に曝け出すわけでもないし、自分だけの世界で、自分が満足できればそれでいい。本当にただそれだけのことだ。
現実は思うように行かないものだ。
自分が正しいと思っていても社会的には正しくなかったり。
社会の不正が思いのほかに法によって裁かれず、蔓延っていたり。
理不尽な人間や不条理な社会によって圧迫されたり。
妄想は抑圧されたリビドーを解放する一種の手段だ。なんら恥じることなどないのだ。
むしろ妄想こそが、現実の自分の背を押してくれることさえありうる。というか俺の人生は概ねそうやって生きてきた感じだ。
人々よ、妄想せよ。きっと真の救いを見るだろう。
2016年冬季アニメ最可愛二次元美少女
「やっぱり二次元は最高だぜ!」
俺は生粋の二次元美少女愛好者ではあるが、二次元ならなんでもいい、などということは決してない。
むしろ二次元愛好者であるからこそ、そこには極めるべきこだわりという物がある。
さて今期、二次元愛好主義者こと俺が選ぶ最も可愛い二次元美少女は
【このすば】の『めぐみん』です。
彼女の魅力は無数にあれど、大きいものを三つ挙げよう。
まず一つ目は、「爆裂魔法に対して異常なほどの思い入れがある」だ。
何かに熱中する人間の姿というのは、かくも美しく、そして羨ましい。
彼女の爆裂魔法に対する異常なほどのこだわりは、まるで恋する乙女、あるいは己の道を極めんとするオタクのようだ。
次に二つ目。「彼女が優しく強い中二病である」ということだ。
彼女の中二病気質は、爆裂魔法への依存と合わさることで、その一挙手一投足を非常に尊いものにしている。
普段のうすっぺらなかっこつけから一変、素直にごめんなさいが出来ることから、彼女が非常に良い子であることが伺える。デュラハンの一件では思わず人に濡れ衣を着せたが、結局は自ら名乗り出た。それは彼女の優しさと強さを垣間見させるものだ。
最後に三つ目。「意志の強さ」。俺はこれを最も重要視している。
デュラハン相手にも爆裂魔法を諦めなかった頑なさ。そして仲間の為に自ら城に乗り込もうとする勇気。
意志薄弱な者や、傍若無人な者が蔓延る現実世界では決してお目にかかれないであろう、その気高く尊い覚悟が出来る。その意志の強さは、なによりも愛おしく、平伏さずにはいられない。
あとはロリっ娘で凹むところとか
爆裂魔法の同志が出来そうで興奮して迫るところとか
かっこつけてるのに素が可愛いギャップとか
あの幼い容姿でパンティが黒とか
ちらちら見えるきわどい脚とか
身体のラインとか声とか仕草とかもう色々キリがないのだが、とにかく我らがめぐみんナンバーワンってことだ。めぐみんで宗教が創れる。
最後に。
めぐみんと一緒に爆裂魔法を極めて同志になって、いっそ一線を越えたい。
我は不労肯定論者なり
「法は善悪の判断基準ではない」
軽犯罪法とかいうのに、働く能力があるのに職につかないで住居も持ってない奴がうろうろしてると逮捕されるとかいうのがあって、最近実際に逮捕されたらしい。
不労肯定論者として、これは見過ごすことのできない事案だ。
まず、労働が義務と言う時点で歪だ。
生き物は皆、生命を維持するために生きている。これに例外は無いはずだ。
ただ、人間だけは生命を維持するためだけに生きることは許されない。
いわゆる社会貢献という奴で、社会人は社会に奉仕し、会社にて労働力を捧げ奉らねばならない。
俺はこれが人間社会の歪さをあらわしていると思う。
とある革命家の言葉だが。
「人は毎日八時間かそれ以上、商品として機能する。つまり比喩的に言うと、個人としては死んでいる。」
そして、この労働が逃れられないものだとするならば、人間は生まれながらにして死んでいるも同然だ。
極端に言えば、自らの力で生きている人間は、現代社会には一人として存在しない。
現代社会人のすべては、社会によって生かされ、そして殺される運命にある。
これほどおぞましい事があろうとは、俺は思いもしなかった。
俺は筋金入りの人間嫌いだ。
正確に言えば社会と、社会人と称される者が嫌いだ。
彼らのいう「社会通念」「社会常識」というものを、人は無理矢理に押し付けられ、そして当てはめられる。
この狂ったディストピアは、すでに何年も前から完成されていたのだ。
だからこそ、彼らの歪さを拒絶した、いわゆるニートという不労者を、俺は肯定したい。
そして労働をすることが善、不労は悪という風潮を打ち砕き、人が新たな自由を得られることを願い、俺は不労肯定論者となった。
労働そのものを否定するつもりはない。
労働によって金が入れば、あらゆる欲を満たせるのだから。
食欲、肉欲、物欲の諸々。それを満たす手段として労働を否定するつもりはないし、それを満たしたいがために労働する者を否定など出来ない。
ただならば、労働したくないという意思が否定されるのは、あまりにアンフェアだ。
どうか世の人間たちが、戦争反対や女性差別撤廃だけでなく、不労肯定にも声を上げてくれることを願っている。
アニメの影響と妄想教
「現実と妄想を混同してはならない。現実は妄想と比べて取るに足らない」
最近は色々と規制を強めることが正義という風潮が強くなってきたな。
いわく、アニメや漫画、ゲームなどの不適切な表現は、青少年の育成に悪影響を及ぼすうんぬん。
俺にとっては「不適切な表現」が何に対して不適切であるのかとか、「青少年への悪影響」がなにを基準にして悪と断じているのかと、規制論者と問答をしてみたいものだと思っているが、価値観が相違しすぎている者同士では、話は通じないだろう。
さて、アニメや漫画が及ぼす影響というのは、やはり一番最初に思いつくのは、それを模倣、すなわち真似をすることだろう。
つまり、アニメや漫画で行われている暴力表現や性的描写を現実世界で行ってしまう人々を増やすかもしれない、というのを危惧しているのだろう。
暴力、レイプなどの犯罪行為を描写してしまうのは、真似をする者が出るので規制するべきだ、という論。
この論そのものに対して、俺は自信を持って「否」とは断じることができない。
なにせ二次元主義者なもので、二次元の持つ力というのは確かに実感している。
好きなアニメの好きなキャラによって、勇気付けられたこともあったし、食べ物の好き嫌いも激減した。
それに俺が今、この現実で絶望せずに生きていられるのは、アニメや漫画などの二次元のおかげであるというのは確かだ。
それが悪い方向にも作用するかもしれないという可能性は、十分にある。
そこで、俺は妄想教を広めることで、一つの解決策として提示したい。
<妄想教とは?>
妄想教とは、簡単に言えば「現実への執着を捨て、己の妄想を信仰し、妄想することで己の欲を満たす」というものだ。
例えば、現実に即せば犯罪行為なのだが、魅力のある物語というのはよくある。
某怪盗が珍品を盗み出したり、黒衣の医者が無免許で法外な値段をふっかけ手術したり、麦藁帽子を被った海賊の一味が各所で暴力沙汰を起こしたり。
それに憧れを抱く者はやはりいることだろう。俺だってそうだ。
だが現実ではそれは許されない。まず法が許さないし、世間様も許さない。
なら、もうその憧れを実現するには妄想する以外にほかは無い。
子供の頃に正義のヒーローになりきったりするごっこ遊びの延長だ。
理想の自分を妄想し、理想の物語を妄想し、妄想によって自分の欲を満たす。
自分の願望を叶えられない現実になんか唾を吐いて、自分の願望を叶えられる妄想こそ真理だと信仰する。己が妄想こそが神であると。
方法はいくらでもある。絵が上手い、練習がしたいなら漫画を描いて妄想を実体化させればいい。画力がないなら自分なりに言葉を並べて、妄想小説でも書けば良い。
別に誰に見せるでもない。自分の欲を満たすためだけの、自分のための創作物。
自分が築き上げた妄想世界を肯定することで、ようやっと人は現実の苦しみからの逃げ場を確保できるのだ。
そして俺はそれを実践している。この糞を垂れる価値も無い現実世界で、妄想に浸り、そして満たされている。
妄想は誰も傷つけないし、妄想は自分を幸福にする。
だからこそ、妄想教教徒であることが、現実に危害を与えないことへの主張となれば、それが一番良いと思う。
束縛多き現実にうんざりしているそこの君、ぜひともこの妄想教に沿って妄想してみてはいかがだろうか。
君の妄想は常に、君を受け入れる準備をしているはずだ。
妄想教の紹介
「共通の認識が現実ならば、自分だけの妄想こそが真実である」
妄想教は俺の類稀なる妄想力が生み出した新たな宗教だ。
ある日、俺はとあるエロゲ原作アニメを見て妄想で嫁を顕現する技巧を目の当たりにした。
未だ学生だった俺にはあまりに衝撃的で、当時から二次元愛好者だった俺はまさに目から鱗、「その手があったかぁ~」といった感じだった。
それから数年後、今度は<おちごと>によって幼女化した不幸なおっさんの立てた某大型掲示板のスレッドにて、タルパという技巧があることを知る。
そして俺も脳内嫁でタルパする日々であった。
さて、脳内嫁とはつまり妄想である。
嫁が妄想で済ませられるなら、友人も知人も盟友も朋友も同胞も、全て妄想でいいのではないか?
もっというなら人生さえ妄想で0から創りだして、自分の望む人生を、この責め苦のような現実の中に、せめてもの救いと希望を見出せるのではないか?
そんな妄想が暴走して出来上がったのが、この妄想教なのである。
宗教といえば皆が一歩後ずさるであろう昨今、俺の妄想教は崇めるべき神を自分で決められるので、これは宗教というより、思想に近いのかもしれない。
ではここで妄想教の教義、というよりコツをいくつか列挙する。
ちなみにリアルが充実している人間には妄想教は必要とされないので存分にリアルを楽しんでいればいいと思う。
1.現実への執着を捨てる。現実を懐疑し、諦観し、価値観は妄想に重きを置く。
2.おわり。
終わりである。つまり現実に生きているにもかかわらず、現実に対してのこだわりを捨てようということだ。
現実で無理にこだわりを実現させようとすると、かならず疲労し、挫折したりする。挫折は心の疲労骨折なのだ。
なので、こだわりの全てを妄想に詰め込み、心の安息地、安住の地、理想郷を築き上げよう趣旨だ。
中国でいうところの武陵桃源、いわゆる桃源郷の思想が確か似た感じだった気がする。
さて、妄想教を志すと現実にどのような影響をもたらすか。
まずこだわりが無くなるので、現実に対して無駄に期待して無駄に落胆するようなことがない。
宝くじが当たらなくても、仕事でどれだけ無能と罵られようと、自分には妄想という帰るべき場所がある。
もちろん妄想世界に住む自分も妄想なので、無能ではないし、褒めてくれる脳内嫁や友人もいるので、現実の絶望が軽くなる。
また、彼女・彼氏も妄想で事足りるので、出費が減る。
妄想なら浮気されることもないし、デートの費用も一人分。結婚生活も面倒な血縁を全て無視できる。
唯一の欠点としては実際にまぐわいが出来ないというところだが、頑張れば妄想で事足りる。
これからは妄想教の観点からも様々なことにちょくちょくと語っていきたいところである。妄想教の良さが広まることを信じて。
二次元愛好主義者とは何か
「三次元とは、二次元を認識するための空間でしかない」
私は二次元愛好者である。
二次元に狂おしいほどに恋し、二次元をこよなく愛している。
二次元はこの世、いわゆる三次元におけるあらゆる存在をも凌駕し、また二次元美少女は、三次元に存在するあらゆる女性よりも価値あるものである。
私はまだ学生の頃、オタクと呼ばれるものが、いわゆる二次元愛好者のことを指しているのだと考えていた。
しかしそれはどうにも間違いだったようで、自称アニメオタクである者たちは、ふとした拍子に脱オタをしたり、突如として三次元に彼女を作ったり、あるいは三次元の女性に現を抜かし、風俗へと転がり童貞を卒業する者も居ると、今では知っている。
かつての私はどうにもそれが納得がいかないので、オタクという言葉の意味をよくよく考えていた。
いわく、オタクとは愛好するものへの知識が豊富であり、よく語る者のことをそう呼ぶようであった。
収集家はコレクター、一般人の知りえぬ深い(マニアックな)ところを好むのがマニア。
では私はなんであるのだろうか。
アニメや漫画は好き、ラノベも好きである。オタクの様に知識が豊富であるわけではない。むしろ知識など皆無に等しい。
なにせ脚本、監督、声優、その他諸々に対して、関心が全く無いのである。
かといって、コレクターというほど収集に熱意があるわけでもなく、マニアというほどの深みも無い。
私はただただ幻想の世界が好きで、空想のキャラが好きで、理想の展開に憧れていて、夢想するほどに欲していて、ただ妄想に明け暮れているのが精々であった。
では私は一体何か。
ここまで搾れば答えは簡単だった。
二次元をただ愛好する者。それを主義とする者。
こうして俺は二次元愛好主義者という言葉を創り、その異常性に胸を張ることが出来るようになったのである。
では二次元愛好主義とは一体なんであるのか。私なりの主義を簡単に列挙してみる。
なお、二次元愛好主義者は男女を問わない。
1.二次元を至上のものとして愛好する。
2.二次元に何より重く価値を置く。
3.二次元の出来事には三次元以上に過敏に反応する。
4.二次元キャラクターを最上の存在として意識する。
5.嫁は二次元であり、童貞や処女は二次元へと捧げる。
これが私の二次元愛好主義の最低限の基準だ。
が、この基準を満たしている人間というのが思いのほかに見つからない。
もはや私の理想としていた二次元愛好主義者とは、昔の私の思い込みだったのかもしれないと思うほどであった。
とはいえ、たとえそうだったとしても、私が二次元愛好者であることに変わりは無い。
これからも二次元愛好者として妄想を続け、童貞を貫き、二次元に触れることで何よりも幸福を感じられる自分であればと思う。