我は不労肯定論者なり
「法は善悪の判断基準ではない」
軽犯罪法とかいうのに、働く能力があるのに職につかないで住居も持ってない奴がうろうろしてると逮捕されるとかいうのがあって、最近実際に逮捕されたらしい。
不労肯定論者として、これは見過ごすことのできない事案だ。
まず、労働が義務と言う時点で歪だ。
生き物は皆、生命を維持するために生きている。これに例外は無いはずだ。
ただ、人間だけは生命を維持するためだけに生きることは許されない。
いわゆる社会貢献という奴で、社会人は社会に奉仕し、会社にて労働力を捧げ奉らねばならない。
俺はこれが人間社会の歪さをあらわしていると思う。
とある革命家の言葉だが。
「人は毎日八時間かそれ以上、商品として機能する。つまり比喩的に言うと、個人としては死んでいる。」
そして、この労働が逃れられないものだとするならば、人間は生まれながらにして死んでいるも同然だ。
極端に言えば、自らの力で生きている人間は、現代社会には一人として存在しない。
現代社会人のすべては、社会によって生かされ、そして殺される運命にある。
これほどおぞましい事があろうとは、俺は思いもしなかった。
俺は筋金入りの人間嫌いだ。
正確に言えば社会と、社会人と称される者が嫌いだ。
彼らのいう「社会通念」「社会常識」というものを、人は無理矢理に押し付けられ、そして当てはめられる。
この狂ったディストピアは、すでに何年も前から完成されていたのだ。
だからこそ、彼らの歪さを拒絶した、いわゆるニートという不労者を、俺は肯定したい。
そして労働をすることが善、不労は悪という風潮を打ち砕き、人が新たな自由を得られることを願い、俺は不労肯定論者となった。
労働そのものを否定するつもりはない。
労働によって金が入れば、あらゆる欲を満たせるのだから。
食欲、肉欲、物欲の諸々。それを満たす手段として労働を否定するつもりはないし、それを満たしたいがために労働する者を否定など出来ない。
ただならば、労働したくないという意思が否定されるのは、あまりにアンフェアだ。
どうか世の人間たちが、戦争反対や女性差別撤廃だけでなく、不労肯定にも声を上げてくれることを願っている。