アレ

アレです

アレのこと

 久々だけど特になんということもないので、時流に沿ったアレの話をするということで。

 

 じゃあ今回は自炊の話します。

 

 まず最初に、俺は100年に一人と呼ばれるほどの生きる怠惰です。

 無能と無気力のスペシャルハイブリッドモデルの社会不適合者で、労働が大嫌い。

 

 そんな人間だとまず正社員にはならないし、パートするにしてもフルタイムなんてとても、むりむりのかたつむりです。

 となると、やはり稼ぎは少なく、ごはんにかけるお金も少ない。頑張って節約しないといけません。

 

 繰り返しますが、俺は無能と無気力のハイエンドモデルです。

 しっかり稼いでしっかり食べたい人は健常者さんは真似をしないほうがいいでしょう。

 それでは。

 

1.白米と味噌汁

 完璧です。もう非の打ち所が無い。

 

 まず白米はレンチンです。

 当然ですね、無気力人間は仕事に労力を割きたくなければ、自炊にすら手間をかけたくないのです。

 味噌汁の具は長ネギと大根。

 とりあえず長持ちする野菜がいいですね。でも種類を増やすと面倒なので大根、里芋、ごぼうとかでローテーション組んだほうがいいでしょう

 あと味噌はそこそこのを使ったほうがいいですね。味噌汁の主役は味噌味ですから。

 

 さすがに寂しいと感じるなら、納豆かキムチか、適当に一品添えると良いでしょう。惣菜の揚げ物が半額になったところを狙うのもいいかもしれませんね。

 

2.釜玉うどん

 究極です。なにせうどんは安い。卵もあって栄養もある。

 

 うどんはもちろん最安値のモノを、茹でる時は底が深めのフライパンで。

 ツユは三倍濃縮がよいでしょう。二倍ではパンチが足りません。

 卵は10個100円でもいいですが、たまには2個、4個いくらのが半額になったのを使って気分転換するとよいでしょう。

 揚げ玉は親の仇のようにかけます。卵とツユと絡んでとてもジャンクな味を楽しめます。

 あとはお好みで、味噌汁で使い切れなかった長ネギを使うとよいでしょう。

 

 不定期ながらささやかに贅沢をするのが、質素倹約を長く続けるコツです。

 

3.ペペロンチーノ

 質素倹約料理の代表的なモノの一つですね。

 

 ニンニクは安物でかまいませんが、出来れば中国産は避けましょう。

 中国産はなんとなく辛味が強くてペペロンチーノとは合わない気がします。好みの問題ですが。

 塩はなんでもいいですが、荒引き胡椒でパンチを効かせると満足度が凄まじいです。

 100gの乾麺パスタだけでは物足りないという人も居るでしょうが、そこは本来の質素倹約を忘れてはいけません。そのために味を濃い目にしているのですから。

 オイルは安物のオリーブオイルをドバドバとぶち込みましょう。

 

 

 とりあえず三種類紹介しました。

 生活は切り詰めても、心の余裕だけは切り詰めないように。

妄想とNTR克服

 克服といっても、というよりそもそもNTRは趣味趣向の域であって、克服する必要が無いので言い方がちょっとおかしい。

 

 それはともかくとして、妄想を自由に操れると幸せな妄想ばかりしてしまい、徐々に物足りずダウナー気分になってしまう場合がある。

 そういう時はあえて自分が苦手とする創作物、俺としてはNTRであるが、それを利用するのが良い。

 

 新しい趣向として受け入れられることもあるだろうが、俺は無理だった。

 ここでは俺の場合、つまりNTR物語を妄想の材料、起爆剤として用いる場合の取り扱い方を、参考例として語りたいと思う。

 

 まず、俺は創作物においては潔癖なほどにバッドエンドが大嫌いだ。

 なので通常はNTRは完全に受け付けられないのが必然である。

 彼氏彼女がいながら薬を盛られてとか、写真や動画で脅迫したりとか、気絶させられ拘束させられ焦らし攻めとか、催眠とか時間停止とか……

 

 が、逆に言えば、バッドエンドでなければどんな展開でも許せる。

 快楽堕ちしきらずに、最後には彼氏彼女のもとに戻るとか、実は寝取らせだったとか、最後に一発逆転すれば許せる。終わりよければすべて良し、だ。

 

 ここまでくれば、俺がNTRに対してどういう風に対処しているかというのが大体察してもらえたと思う。

 妄想の展開は問わない。

 物語を脳内で強引に書き換えるもよし、自分が導き手となって誘うも良し。夢落ちにするもよし。

 とにかく最終的に美談にしてしまえばなんでもいい。妄想は自由なのだから。

 あくまで自分勝手な妄想に過ぎないので、もちろん他者に口外したり主張したりなどといった痛々しく迷惑になるような行為はしてはならない。妄想とは自己完結してこそ妄想なのだ。

 

 ただ、やはり軽いトラウマみたいに心を囚われてしまう場合があるので、自分の空想改変妄想力によほど自信があり、自己責任で後悔しないという方にのみオススメしておく。上手く扱えばよい気分転換になると思う。

 どうしてもというなら沸き立つリビドーのままにワードかメモ帳にでも書き殴ってしまえばいいのよ。

 

 あと脳内嫁を持っている人間も注意した方がいい。下手にこじらせると脳内嫁にさえNTRの疑心を抱いてしまうことになる。

 かくいう俺も危うくそうなりかけたが、その程度の尻軽を妄想した覚えはないということで一応自身を納得させることが出来た。

 くれぐれも、妄想の材料や起爆剤として用いるなら、NTRの取り扱いは慎重に。

ロードバイクとお膝

埼玉から千葉の海を見に行こうとして銚子にまで行った日からやたらと膝が痛い。

一応収まりつつあるが、地味に続いているのでこれは病院確定だろうか。

膝の皿の縁と言ったらいいのか、その辺りが痛い。

自分の体が意外と軟弱であることが判明して、少々落ち込んでいる

こんなんで旅なんて出来るのか……ちなみに走行距離は二日で350キロだった。噂によると一日300キロ走るのとか普通にいるらしいから、もっと精進したいものだ。

命を尊ぶ不戦の誓いと、不労肯定について

 やたらと戦争を危険視し、人命を尊ぶ者たちがいる。

 なるほど確かに命というものはかけがえの無いものとして見て良いものだ。

 失われた命は二度と戻りはしないし、大量の命を失うことになる戦争とは、まさに愚行の極みであるのだろう。

 

 だが、ここでふと、俺の不労肯定思想を加えてもらいたい。

 命を奪うのは、戦争だけだろうか?

 否、戦争以外にも、命を奪う運動は存在する。労働だ。

 現代日本において、過労死や事故死はもはやそう珍しいことではなくなってきている。

 某運送会社、某バス、某居酒屋チェーン、某介護、エトセトラ、エトセトラ……

 俺が現在勤務している小売店ですら、過去に一人の過労死者を出している。

 これを見るに、労働とは人命を脅かす要素がたぶんに含まれるものだと言わざるをえない。

 人命を尊ぶこと。これは俺の不労肯定にも繋がることではなかろうか。

 

 俺は人間が好きではない、というか嫌いだ。他人が生きようが死のうが、基本的にはどうでもいい。

 だがやはり、自殺や過労死に関しては、その悲劇を不憫に思ってしまう。

 そしてそのたびに、労働を称賛するこの社会が醜く見え、社会を構成する人間たちが憎らしく見えてしまう。

 そして余計に人間嫌いが加速する。

 

 だが、その上で人命を尊ぶことで、労働称賛に警鐘を鳴らせるならば、俺は今ここで考えを改めねばならない。

 人命を尊ぶことが、不労肯定へと繋がるのならば、俺は今までの自分の過ちを許しつつ、考えを改めることにする。

 それは即ち、命を尊ぶ不労の誓いである。

 

 不労といっても、全く働かないのでは食い扶持に困るだろう。

 ここで言う不労とは、人生全体における自由時間のことだ。

 現代日本に蔓延るサービス残業や長時間労働、苛烈なノルマに過激な経営方針。

 これらの労働に否を突きつけて、俺は不労の時間を尊ぶことの大切さに気付いてほしいと思う。

 そして同時に、不戦を尊ぶことで、共に人命を尊ぶ果ての幸福な社会を実現したい。

 

 もし、不戦を尊ぶ者が居たならば、俺は不労について問いたい。

 そしてどうか、不戦を尊ぶならば、不戦と共に不労も尊んでいただきたいと俺は願う。

現実を見ろという言葉と、無謀

 俺は毎度のことながら妄想教なので、この言葉が大嫌いだ。

 現実を見ろという言葉には、人の抱く夢、希望、願望、切望の全てを打ち砕く邪悪な要素を含んでいる。

 とりわけ妄想によって救われている妄想教祖である俺にとっては、それは地獄の責め苦と同義だ。

 

 さて、現実を見ろとはどういうことか。

 それは悪意を除いて言えば、将来を確実に生きろ、という意味の言葉だろう。

 自分たちは現実を生きている。どのような夢や願望を抱こうと、現実は容赦なくそれらを打ち砕いてくる。

 ならば、最初から無謀な夢など見ず、滑稽な希望など抱かず、ただ現実をひたすらに生きろ。という意味だとして俺は捉えている。

 しかし、俺からしてみれば、そんな生き方は生きているとは言いがたい。

 そんな生き方で、生の実感が得られるのか。そんなザマで、後世の人間に胸を晴れるのか。

 俺は人生は「生きる」ものだが、「活きる」ものでもあるべきだと思う。

 生活の活。活力、活き活きとする。活性化。

 それらなくして、人は生きることに意味を見出せるものか。

 

 己の夢を、自ら摘み取ってはならない。

 己の夢を無謀だなんだと否定されたときは、むしろ燃え上がれ。

 この現在に至るまで、幾多もの無謀を成し遂げた存在がある。

 世界が地続きと証明した者も、空を飛んだ者も、宇宙にまで至った者も、大昔の人間から見ればまさに夢のような話だろう。

 失敗を怖れるな。挑まないことこそが、真の失敗であり、敗北なのだ。

 それこそ命をかけて、成し遂げようとする熱い魂こそが、生き物を輝かせるだろう。

 

 だが逆に言えば、それほどの覚悟をもたなければ、挑むべきではないともとれる。

 その意味では、現実を見ろというのは一つの入信儀礼の役割として使えるかもしれない。

 なんにせよ、己の夢に意地と誇りがあるならば、怖れず向き合い、よく考えて挑んで欲しい。

小屋暮らしとやら

 最近まで小屋暮らしというのが流行りかけていたらしい。

 どこか適当に安い土地を購入し、そこに小屋を建てるというものだ。

 普通に一軒家買うとなるとどうやっても1000万はかかる。古い田舎の家屋となるとまた安くなるらしいが、それでも自分で住居を造るというのは中々に浪漫溢れる。

 

 ということで、いずれ俺も小屋暮らしとやらに手をつけてみようと思っている。

 まだ安い土地を適当に見繕うくらいしかしていないが、いずれ記事が小屋系まっしぐらになるかも分からない。

 とはいえ二次元愛好者なので二次元への愛好もつらつらと垂れ流されることだろう。

 

 俺は不労肯定論者であり、出来る生活を夢に見ている。

 となれば当然、出費は最小限に抑えなければならない。現在は実家暮らしだが、それでも自分の飯は自腹だし、賃貸ゆえにかかる家賃や光熱費の一部は払っている。

 家賃+光熱費として徴収される額は3万5千円。

 月に3万5千円の出費はやはり痛い。俺が一人暮らしをしたならば、もう少し節約できる自信がある。

 小屋暮らしなら家賃を取られることもないし、井戸を掘れば水道代はタダ。電気とネット代は妥協するとしても、ガスはサバイバルのように枯れ枝でも拾って燃料にしてみたい。

 妄想によって救済された俺にとって、この世界はネット環境とその日の食い物さえあれば十分に事足りるのだ。

 今月には仕事も終える。そろそろ動き出したいところだ。

死にたい願望について

「死にたいのか、死ぬほかないのか、死ぬべきなのか。答えは己の中にしかない」

 

 よく死にたいと呟く人間が居ると聞く。

 死にたいと言う願望には、やはりそれぞれ死にたい理由があり、一枚岩ではない。

 自分が駄目人間だから、将来に希望が見えないから、こんな世界生きていてもしょうがないから。

 

 俺は死にたいという願望が「本物」であるならば、それをとめる必要はないと思うし、むしろそれを止めるのは一種の冒涜とさえ思う。

 しかしそれが万が一、「死にたい」ではなく「生きようがなく、死ぬほかない」というのであれば、そこには一度待ったをかけたい。

 

 例えば中年ニートが親を亡くして生活費用が捻出できなくなったとしよう。

 そこから生きる手段があるとすれば、自ら働くか、生活保護の申請でもするか。といったところだろう。

 

 さて、ここにきて「死にたい」と「死ぬほかない」の2パターンを想定してみる。

 死にたいの場合:どうしても働きたくないし、生活保護だと色々な制限がかかる。そんな世界に生きていてもしょうがないので、いっそ死んでしまいたい。

 

 死ぬほかないの場合:自分の能力では働けないし、生活保護も申請したが通らなかった。もう俺にはなす術が無い。死ぬしかない。

 

 前者の場合、そもそも生きる意味が無いということなので、死にたいという願望を尊重してやりたいというのが俺の見解である。

 まあここらへんも妄想教ならいくらでも肉付け出来るので、やはり妄想教はオススメ。

 ただ後者の場合、本人は生きたいという意思があるにも拘らず、あらゆる行動が実を結ばず、結果的に残された選択肢が「死」だけだった。というのを、俺は放置しておくべきではない。

 

 社会における自然淘汰と言う輩も居るが、そんな人命軽視ならそもそも社会なんて必要ないし糞喰らえだ。

 社会には、社会を構築する以上、社会内に存在する人間を全て保護することが使命であるはずだ。

 

 さて、これらとはまた別に、更なる「死にたい願望」が存在する。

 それこそが、「死ぬべき願望」だ。

 

 自分はクズだから死にたい。あるいは死ぬべき人間なのだから死にたい。などという自己嫌悪からくる「死ぬべき願望」も「死にたい」で表現されることが稀にあるようだ。

 人それぞれに「クズの定義」やらの価値観があって、自分は死ぬべき人間なのだと思い込んでしまう。

 そうした固定観念に縛られ、自分の命を断定するのは非常に勿体無いことだ。

 

 

 とはいえ、どれだけギャラリーが騒ごうとも結局は、生き死には本人しか決められないことだ。ギャラリーに出来るのは、何かしらをごたごたと提案し、興味を向けさせるくらいだ。